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執筆者の写真ネカフェ難民シンイチ

劇画ってなに?


 こんにちは、ネカフェ難民のシンイチです。今回は、改めて「劇画ってなに?」という問いについて、簡単にまとめていきたいと思います。





・劇画の定義


 劇画は漫画のジャンルの一つで、辰巳ヨシヒロ先生によって命名されました。初めて「劇画」という、言葉が誕生したのが、1957年の「街」12号に掲載された「幽霊タクシー」という作品です。


 劇画の主な特徴として、写実的で線が細かく、丸っこいまんが・アニメ調のキャラクター造形に対して、四角い絵と称されます。ハードボイルドや、海外漫画に影響を受けています。あと眉毛が太かったりします。「ゴルゴ13」とかがそうです。



 しかし、以上が必ずしも劇画の定義ということではありません。辰巳先生の「幽霊タクシー」を見てみると、非常に丸っこい子供むけのタッチに見えます。劇画調は、徐々に現在の形態へと発展していったのです。






・劇画工房


 そんな劇画の発展に貢献したのが、若手を中心とした作家集団「劇画工房」です。貸本出版社・日の丸文庫の給料不払いに交渉しようと結成された「関西漫画家同人」の石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあきと言った先生方に、辰巳ヨシヒロ氏が加わり、まもなくさいとうたかを先生が合流し結成しました。彼らは、仲間内で劇画という言葉を共有。

 「劇画宣言のご案内」と題したハガキを出版社などに送り、<正式>に「劇画」が始まることとなったのです。ただ、59年の1月に結成し、8月には辰巳、さいとう、佐藤の3人が抜けて事実上の解散となりました。




・貸本劇画


 そんな劇画は当初、貸本という媒体を舞台に活躍。創成期の劇画は、貸本劇画と呼ばれることもあります。

 貸本とは、読んで字のごとく本を貸し出すサービスです。1948年の神戸の「ろまん文庫」が起源とされ、50年代前半には、貸本まんがも登場。ここに劇画も登場し、50年代末にピークを迎えました。

 単行本形式のアンソロジー「影」や「街」、劇画工房の作家たちを高待遇で迎え入れた兎月書房の「摩天楼シリーズ」などがヒット。同ブームから、劇画工房のメンバーの他にも、白土三平、水木しげる、つげ義春などの先生方が筆を握りました。



しかしその頃、TVが一般家庭に普及していった他、「サンデー」「マガジン」といった、週刊少年誌の創刊も向かい風となりました。62年には、兎月書房も倒産し、貸本劇画の時代は終焉を迎えました。






・マガジンの劇画化


 その後劇画作家たちは、雑誌数を増やしていった少年漫画雑誌や青年誌に、発表の舞台を移すことになります。しかし、劇画のメジャー進出を後押ししたのは、それだけではありません。

 65年、漫画の神が宇宙リスのアイディアを「少年マガジン」の人脈経由で盗作されたと、ブチギレ。マガジンから連載を撤退するという事態、通称「W3事件」が発生しました。ただでさえ、トキワ荘系の作家をサンデーに多く抑えられていたマガジン。3代目編集長に就任した内田勝氏は、劇画を積極的に迎え入れる決断をします。


 この時期 さいとう・たかをや佐藤まさあき、彼らのスタッフだった川崎のぼるや南波健二小池一夫、さらに「ガロ」「COM」 などのマニア向け漫画雑誌や「コミックマガジン」「漫画アクション」「ヤンコミ」「ビックコミック」「プレイコミック」などの青年誌から、永島慎二、白土三平、つげ義春、梶原一騎、宮谷一彦、バロン吉元、池上遼一、上村一夫などの先生方が筆を握りました。



 60年代後半は、最も劇画が歓迎された時代でしょう。「週刊少年マガジン」当時史上初となる、150万部に到達。

 梶原一騎原作・川崎ゆきお作画の「巨人の星」、梶原一騎原作・ちばてつお作画「あしたのジョー」の2枚看板が、少年漫画会を席巻しました。

 同誌は、学生運動家の間でも同書はバイブルとなり「右手にジャーナル、左手にマガジン」という言葉まで生まれました。





・劇画の精神


 劇画とはなんだったのか。手塚へのアンチテーゼ、規制から作家を守るための子供漫画との差別化、若気のいたりなど、様々に言い表すことができるでしょう。

 しかし、私が思うに劇画のその最大の特徴は、実家太い系じゃない若者たちの運動であるということであります。前後の作家集団と比較してみましょう。


 戦後漫画の起源とも言える「トキワ荘」は、その中心人物の一人である手塚先生が、医者の裕福な家庭に育ち、両親は当時は珍しく漫画文化にも寛容で、家には映写機すらあり、作家として多くの教養を身につけていました。

 その後の漫画史に絶大なる影響を与えた24年組の拠点となった「大泉サロン」も、実家太い系の増山法恵氏の実家の近くの住居を借り、芸術やクラシックといった、ハイカルチャーに明るい氏の影響を受けています。

 80年代以降のオタク文化アニメ文化を牽引したといっても過言ではない「ガイナックス」は、いうまでもなく実家太い系の塊見たいな組織で、SFを中心とした多くの素養を身につけました。



 ここで言いたいのは、実家太い系だからウザいという話ではなく、劇画工房の作家たちが、SFや映画といった文化資産を前後の作家集団と比較して持たない代わりに、弱気もの蹂躙されるものの怒りみたいな、情念が劇画にはあったということです。

 その延長線上にある、「巨人の星」「あしたのジョー」が、60年代末のカウンターカルチャーの中で歓迎されたことは、必然と言えるかもしれません。

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